私が英語教師を志しながら、大学での専攻は英語ではなくベトナム語を選んだ背景には、恩師若林俊輔先生のアドバイスがある。
もうずいぶん前のことで詳細は覚えていないが、あれは確か共通一次試験(センター試験の前身)や私大入試が終わり、私大の結果を見てから国立大の出願先を決定するという時期だったと思う。高校帰りの詰襟学生服のまま、夕方すでに暗い中、当時はまだ巣鴨にあった外語大まで出かけて行った。
もちろん、アポなし突撃訪問ではなく、ちゃんと紹介のある訪問である。 紹介者は小林幸子。歌手ではなく、私の中学校時代の英語の恩師だ。
小林先生については書いておかねばならないことが山ほどあるので、別の機会に詳しく書くとして、今はごく簡単に説明しておくことにする。私がまだ相当悪かった中学2年のとき、小林先生は当時東京学芸大学の助教授だった若林俊輔先生のところで内地留学を終えて、私が在学していた中学校に戻ってきた。人間的にとても魅力があり情熱的な人で、この人と出会っていなかったら 、私は町のゴロツキで終わっていたかもしれない。
小林先生は、学校きっての悪評高いワルだった私を見て、不良のくせに英語のセンスがある面白い生徒がいると、興味を持ったらしい。そのことは若林先生にも何かの折に話をしていたようで、後日酒を飲みながら若林先生から伺ったことがある。
小林先生は、若林先生が文京区立第六中学校に勤務していた頃、同じ文京区立の中学校で教えていたことから知り合い、その後も親交があったらしい。内地留学もその縁だったのだろう。
さて、中学校では相当お世話になり、お陰様で英語大好き少年となって近所の都立高校に進学、しかし進学校での英語授業に落胆し、1年の8月から休学して一年間米国の公立高校へ留学することにした。
初めて若林先生とお会いしたのは、当時先生が編集をしていた『英語教育ジャーナル』という月刊誌で、学習者の眼から見た英語教育というような特集で座談会をすることになり、そのコーディネーターを頼まれていた小林先生に連れられて行ったときだった。
座談会では、普段から感じている英語の授業へのいろいろな不信不満を生意気に話しをさせていただいた。若林先生は、トレードマークのモジャモジャ頭をかきあげながら、目を見開いて表情豊かに聞いてくれた。そのときの記事は、『英語教育ジャーナル』1980年9月号に収録されている。
それまでも、若林先生の話は小林先生から何度か聞いたことがあったが、英語教育はまだ自分の主たる関心事ではなかったし、英語教育の道に進むとも思っていなかった。まして、その人が自分の生涯の師となるという意識はなかった。
翌年7月に帰国、高校二年に復学した。はじめの頃は法学部を目指していたが、教育への興味も捨てきれない。いろいろ悩んだ末、英語教師になりたいと小林先生に相談したところ、英語教育ならいい先生がいるからと外語大を薦められた。そうだ、あの先生なら行く価値はある、と決心した。
一応 、J大やD大など私大の英語学部も受けたが、勝手な留学に行かせてもらってずいぶん経済的な負担をかけてしまったこともあり、私大は眼中になかった。で、いよいよ国立へ出願という段階になって、東京外国語大学はいろいろ外国語の専攻があるが、英米でいいのか、とちょっと迷いを感じた。それで小林先生に再び連絡を取り、ゼミを尋ねることになったというのが始めに書いた場面だ(前置き長くてすみません)。
今はもうない、西ヶ原のグラウンドを見下ろして建つ五号館の階段を上がり、研究室のドアをノックして開くと、数名の学生と若林先生がいた。一同、詰襟の生意気そうな高校生に視線を向けた。
既に座談会で一度お会いしている先生に改めてご挨拶すると、簡単にゼミの仲間に紹介され、話が終わるまでちょっと座って聞いて待つように言われた。
そのときの話題は聴覚像(acoustic image)についてだった。そのとき例として紹介されていた、A knife without a handle which has no blade.という語句は、研究室のホワイトボードに書かれたきれいな先生の文字とともに今でもよく覚えている。よく考えると実体は何もないのだが、その聴覚像は聞き手の脳裏にはっきり残っているというお話。
ゼミが終わり、先生は私に向かって、「で、相談というのは?」と振ってくださった。
私は、「英語の教師になるために外語で勉強したい、専攻できる外国語はいろいろあるが、英語教育をやるなら、やはり英米語学科がいいでしょうか」という趣旨のことを質問した。質問というより、気持ちとしては「確認」で、当然肯定的な反応が返って来て、自分の迷いは払拭してもらえると予期していた。
しかし、先生の答えは「いや、英語は自分でも勉強できるんだから、せっかく外語に来るなら他の言語をやるのがいいね」という意外なものだった。
予想外の答えにやや戸惑いながら、「では、ドイツ語とかフランス語などがいいですか」と問い返すと、「いや、どうせなら西欧語じゃないのがいいね」というさらに予想外の答え。
私は、当時の外語大で開講されていたアジア語の諸学科を思い出して考えた。そして、左巻き志向の政治少年として強い社会的関心を持っていたベトナムに思い至った。「ベトナム語なんて、どうでしょうか?」と尋ねると先生は嬉しそうに「いいねぇ、ベトナム語。なかなか他では学べない言語だね」とおっしゃった。
これが、私が外語大でベトナム語を専攻語とするに至った経緯である。
入学して最初の年はそこそこ授業にも出ていたし、大学にも足が向いていたが、塾のアルバイトに入れ込んだり、そこの塾長に手ほどきを受けてコンピュータのプログラミングに没頭したりしているうちに、いつしか大学から足が遠のいてしまった。せっかく素晴らしいアドバイスをいただいて入学しながら、まったく不肖の弟子である。
そろそろマズいと、大学に再び顔を出し始めたのが三年次。同期の仲間のほとんどは順調に単位を修得し、大学に来ているのもまばらになっていた。私はといえば、要領良くベトナム語の単位は何とかクリアしていたので、卒業はできそうだったが、教職免許を取ろうとすると、いろいろな事情と制約から、四年に加えてさらに二年間留年しなければならないことが判明した。
さすがにこの時は悩んで不眠症になった。床に入ると将来への不安が頭の中でグルグル回る。大人しく卒業して企業にでも就職するか、そもそもの目標に向けて留年してでも教職免許を取るか。
散々悩んだ末、留年を覚悟した。専門語学科の単位が満了してしまうと卒業になってしまうため、ベトナム語科の先生に相談して、その先生の授業の単位を、保留してくれるようにお願いしたところ、「卒業する時に単位を出しましょう。必要な時になったら言いにきてください」と快諾してくださった。
飛んだご無沙汰で呆れて追い返されるかと恐る恐る若林ゼミを訪れたとき、先生は開口一番、「なんだ君、ちっとも見ないから、やめちゃったのかと思ったよ」とおっしゃり、私を暖かく迎えてくださった。そういう先生だった。
それ以来三年間、先生の鞄持ちのようにすべての授業に出席し、語研などの勉強会や出張授業などにもくっついて行き、たくさんのことを吸収させていただいた。大学帰りの巣鴨駅界隈ではずいぶんお酒をごちそうになり、酒席でも多くを学ばせていただいた。
ベトナム語を専攻ことは人事的には必ずしも追い風にはならなかった。六年かけて何とか外語を卒業し、上越教育大で修士号を取り、教師になると応募したいくつかの私立学校の公募では、英語が専攻でないという理由で書類審査に落とされた。そのときは若林先生は一緒になって怒りを感じてくださった。のちにある大学で組織ぐるみのアカハラに巻き込まれたときには、どうせ英語が専門じゃないのだろうと悪口も言われたこともある。
ベトナム語という選択でちょっと悔やまれるのは、ベトナム語ではローマ字を用いるということだった。当時インドシナ語学科で開講されていた言語のうち、タイ語もビルマ語も独自の文字を持つ言語だった。これを専攻していれば、新たな文字を学習するという入門期学習者の経験を共有できたかもしれない。
ともあれ、ベトナム語は必ずしもモノなったわけではないが、アジア語を学習したという経験は、間違いなく私の外国語観を広げ、豊かにしてくれた。なかなか時間は取れないが、いつかはきちんとベトナム語の学び直しをしたいと思う。
先生外大だったんですね(>_<) 最近、英語科にした意味ってなんだろう、と友達とよく話します。 マイナー語にも触れてみたいと思いました。 あと、お大事になさってください!
境 一三 さん、書くと約束しておきながらずいぶんお待たせしちゃいました。ご笑覧ください。
英米だとシステム的にもマイナー言語を学ぶ機会を取りにくいですよね。今は改善したのかな。
私は大学時代は英語科ではなかったが、米国大学院留学を通して英語教育を学び、要卒単位にはならなくともほかの言語を勉強した方が良いと思い、スペイン語を勉強しました。英語教師は英語以外の言語も勉強することが必要ですね。
中高6年間(正確には5年間)いっしょだったけど、経緯は初めて聞いた!
ベトナム語専攻だったっけ?ハノイに子会社がありますので、機会があればベトナムで会いましょう。
淡路さん、力作、ありがとうございました。