日本の教員養成についてフィンランドの学生に話をする準備をしていて目にしたこの記事について考えるうち、自分が準備している内容に戻り、あれこれ考えた長文メモになっちゃいました。
まあ、倍率云々の話はさておいて、教育研究家を名乗り、中教審を始めいろいろな審議会研究会に名を連ねてる人にして、教員免許についてこの認識は驚き。現場を見たことないのかなぁ。
以下、妹尾氏の記事を引用ーーーーー
「だが、教員採用試験の受験者はみな、教職免許状を保有している(または取得見込みのある)人たちである。免許制にしているということは、「この人は大丈夫ですよ」という教職の専門性へ一定のお墨付きを与えているという推定が働くはずだ。
「3倍を切ると危険」、「3倍はほしい」という説が本当だとしたら、免許状をもつ受験者のうち、3人に2人くらいは、かなりあやしいということになる。だったら、そもそも、大学等での教員養成が1/3くらいしか成功していないということなのか。それならば、相当ヤバイ。学費も税金も時間も、多大なコストがかかっているのに!
ーーーーー引用ここまで
そもそも、免許は現場教員として歩み始める切符程度のもので、その後5〜10年かけて教師として完成に近づくのであって、免許取得によって教師としての能力についてお墨付きが与えられるものではない。
しかも、教職課程で免許取得に向けて受講している学生の多く(妹尾氏の3人に2人くらい、だろうか)は、教職に就く考えはないまま受講していることも多い。
話題を自分の話に戻して、日本の教員養成の何が問題なのか。
教員免許取得の道を戦前のようにしかるべき教員養成機関のみに狭めればいいかというと、少なくとも現政権下では教育的な背景以外のリスクが大きすぎるので、すぐに諸手を挙げて賛成しかねる。
教職課程を提供する機関を絞る以前に、やらねばならない改革はいくらでもある。
教育実習を筆頭に、実際に教職課程で学生を実質的に鍛えられる体制が圧倒的に不十分だという状況や、大学によっては「免許取れます」が学生勧誘の売り文句になっていることから、あまり厳しく評価するわけには行かないということも聞く(私の勤務学部ではその逆で、教職を本気で目指す学生を主眼に置いているので、いい加減な気持ちの学生は年を追って淘汰されている)。だから、妹尾氏の言うような「お墨付き」が甘々になる。
教職課程の内容について、コアカリキュラムのような試みで、扱うべきことをドバッと広げて並べてみると、いかに教職課程の時間や担当教員のリソースが不足しているかは明らかになるけど、ではどうしたらいいかは見えてこない。
文科も教科教育法を中心に、教職課程の担当教員の質について改善を焦っているようだが、業績チェックやシラバスの精査で実効性はあるのか?そもそも充分な時間数と教育環境(人数など)や、そのような理想とする担当教員を大学で確保可能なのか?
他にも、
・問題の多い現行の免許更新制度をどうする?
・出発の切符を手にして飛び込んだ現場での研修体制は万全か?
・大量退職に伴って生じた世代の空白で、上手く継承されなくなってしまった基礎的なスキルや考え方の継承断絶をどうカバーするか?
こうして考えていると、何本かの糸がぐちゃぐちゃにほつれて大きな団子になった絵が浮かぶ。いくつか糸口は見えるけど、そこだけ引っ張ってみても絡みが堅くなるだけ。どこの端から手を突けてどうやってほぐしていいったらいいものやら、という心境になる。
もう、こちらから講義するのを諦めて、「フィンランドの先生たちはどうしてそんなに人気があるの?」って尋ねてみるか。
https://news.yahoo.co.jp/byline/senoomasatoshi/20190523-00127105/