「大学入試『英語民間試験』への批判に改革のキーマンが大反論」(2019.12.12 16:00 NEWSポストセブン)という記事を読んで、SNSにコメントを書き始めたら、思いのほか長くなってしまったので、ブログに書いておくことにします。
ひと言で言えば、「大反論」という見出しにしては、認識がズレすぎてます。
例えばこの高校の現状についての認識:
だから、平成11(1999)年からコミュケーションの英語の授業をやろうと学習指導要領で決まったのに、20年間放置されてきた。中学校の先生は学習指導要領を守りますが、高校の先生は守らないのです。なぜ守らないのかというと、学習指導要領より大学入試のほうが大事だから。話す技能は入試に関係ないからです。入試の英語試験を変えない限り、高校の教育は変わらない。
もちろん、かなり多くの高校で相変わらず訳読が横行していることはまったく否定しません。
しかし、この言い方では、まるで1999年までは日本の英語教育ではコミュニケーションの視点がなかったかのようですが、とんでもない。そんなこと、学習指導要領で「英語は英語で」って明記されるまでもなく、何十年も前から、まともな英語教師にとっては当たり前のことだったはずです。
この学習指導要領を「守る」というのがどの部分を指しているのか定かではありませんが、前後からおそらくは「話す」「聞く」を指しているのでしょう。いわゆる「英語は英語で」に連なる話です。 確かに教室での「音声」の取扱は中学校の方が多いのは確かだと思いますが、ただそれだけで学習指導要領を「守っている」ことになるのでしょうか?この方、そもそも「英語は英語で」という「約束」は、中学校の学習指導要領では、高校よりずっとあとから付け加えられた「約束」だって、ご存じなんでしょうか?
また、中学校教師は指導要領を遵守するが、高校教師が守らないから問題だ、という認識も、授業での英語使用率当たりを踏まえてのことだと推測しますが、ちょっと現実を捉えてない気がします。中学校でも、学年が進むにつれて訳読がはびこっていますし、入門期の指導のまずさが後々大きく影響していることは、そういう苦労をしている多くの高校教員には共通した認識だと思います。中学校の入門期で、音声と文字の指導を適切かつ充分に行えば、相当な変化が生まれると思っています。単に「英語は英語で」という「約束」を守っているから大丈夫、というのは問題を見過ごすことになります。
いちばんの問題は、上の引用部分の「なぜ守らないかというと」以降の認識です。「入試」を楯にしているという認識はお粗末すぎます。ならば英語を入試から外したら、日本の英語教育は自然と改善しますか?
高校教師たちがそんなに熱心に入試に対応するような授業をしている(その結果「約束」が守られていない)というなら、その入試にいわゆるヨンギノー民間試験を入れたら、高校教師たちはそれに向けて一斉に舵を切り、授業が変わりますか?
さらに、授業で「話す」ことがきちんと扱われないのは、それが入試に含まれていないからだという認識も噴飯物です。センター入試にリスニングが加わってからかなりの年数が経ちますが、それ以降、高校の授業で「聞く」ことが大事にされ、結果として学習者たちの聞く力は伸びたのでしょうか。これは比較的実証的に検証しやすい問題だと思いますが、私の知る限り文科省はそういう検証も行っていません。
このように、現実離れした「認識」に基づいて、入試という脅しの道具で英語教育を何とかしようというのは、極めて悪質な脅迫です。教育は脅迫では改善しません。
では、なぜ高校は(中学校に比べて)、音声面での指導が遅れているのか。理由はいろいろ挙げられますが、この「キーマン」の「認識」にはないことをいくつか挙げておきます。
高校では、それまでの英語学習が順調だった生徒ばかりではありません。そういう生徒に何とかもう一度英語に関心を向けてもらうのは大変なことです。ある意味、中学校段階での失敗を尻拭いさせられる段階です。そういう状況では、(もちろん英語に触れる機会は最大限確保する努力はするのは当然として)単に「英語は英語で」教えることは、目の前の生徒に対応する上では二の次であることも少なくありません。
さらに、クラスサイズや、教材の難易度や内容、教員への研修機会の提供など、改善を促す策を講じないまま、守れるはずのない約束を「告示」という形で無理強いしても、何も生まれません。
そういう政策上の努力を尽くした上で、それでもきちんと教えられない教員は、ネチネチ脅かすまでもなく、速やかにご退場願えばいいだけのことです。