観光案内にはほとんど出ていないけれど、ひとつとても興味を引かれたエピソードがあったのでご紹介します。
興味を引かれたのは、
・いつの時代も、悪どいやつが幅をきかせ横暴を振るう
・悪どいやつらは、がめつくしぶとく生き延びる
・悪どいやつらは、自分に都合の悪い歴史は塗り替えたり隠蔽しようとする
という点。
きっかけは、Tallinn Town Hallの展示。解説パネルと、丸い石二つ。読んでみると次のように書かれてました。
1535年5月のある日のこと、地位のあるヨハン・ヴォン・ウエクスクルが剣で処刑された。彼は最初、彼の小作人を罵り激しく鞭打ち、倉庫に二日閉じ込めて、両足が凍ってしまうまで、激しい寒さの中に放置した。そして丸太を持ち出し、凍り付いた小作人の両足を叩き、頭を二度殴打して死に追いやった。ウエクスクルはこの一歳について代官と市民の前で認めた。小作人の友人と兄弟は彼が町に入れないように立ちはだかったが、依然として町に入ってきた。そして小作人の友らがこのことについて不満を申し立てると、彼は拷問されることもなく事の次第の一切を認め、死罪から逃れるために、救貧院に村を提供し、生涯にわたり救貧院に倉庫一杯の麦と、村には1000マルクを提供することを申し出た。しかし裁判所はこれを認めず、神の慈悲のもと、富める者にも貧しい者が被ったのと同じ処遇を命じた。
(16世紀後半の町の公式記録から抜粋)トーンペアの有力者たちは、ガロウズヒルに逃れようとしていたウエクスクルを逃がすべく、ハルユ門に集まった。これを察した町の評議会は吊り橋を跳ね上げ、吊し門を下げるように命じた。ウエクスクルは、正面門と正門の間、水車小屋のドアの前で首をはねられて処刑された。
これを祈念するべく、処刑場所には二つの十字が刻まれた石が置かれ、人々はそれをBloodstoneと呼ぶようになった。
19世紀初頭、エストニア議員のバーンハード・ヨハン・ヴォン・ウエクスクルは、自家の汚点であるその石を取り除くように命じた。
現在では、もともとBloodstoneがあった場所には、丸で囲まれた十字架が舗装用の玉石で刻まれている。
このパネルを読んで興味がわき、現在のどの辺りにあるのか、Town Hall再度訪れ、質問しました。担当のお兄さんはわざわざパネルのところまで案内してくれ、その横にある当時のハルユ門の模型と、首がはねられた小さな人形を示して説明してくれました。
現地に行ってみると、今は門はまったくなくなっていますが、もともと門だったところが異なる色の舗装石で示され、確かに丸で囲まれた十字もありました。
15世紀中世の小さな町で起こった出来事が、今でも路面に刻まれているというのが感慨深いです。