「学校の”班活動”が日本の子供を潰している」という記事を読んで考えた。
確かにそういう一面もある。でも、著者も認めているとおり、肯定的な効果もある。
心配なのは、振り子の振れに盲従する傾向がある日本の教育界にこういう批判が巻き起こると、一気にそっちに行ってしまうこと。いつも、バランスと塩梅に欠ける。
それと、あることを採り入れようとするとき、それを支える環境というか土台というか、そこまで面倒見ずに単品の策を組み込んでも、機能しないということ。
記事でも触れられている、総合的な学習の時間導入で、内容は教師に任されたということが破綻したのは、自分たちでカリキュラムや教材、指導方法から評価まで、主体的に組むという環境や伝統がないところへ、そこだけ任せても根付かない。
アクティブラーニング、協同学習、反転授業、教えない授業、試験排除などいろいろ目立つ手法やアプローチが提唱されるけど、それが上手くいったケースと同じ環境を整えられているのか、ということにはあまり注意が向けられない。
動植物をひょいと違う環境に持ってきても、そこで生きていけないのと同じこと。
その結果、次々と新機軸が出ては消えてゆき、そして何も残らず、進歩もないまま、次の新機軸に注目が集まる。そういう繰り返しが多い気がする。