いっとき、英語教育の分野、特にICTを活用した英語教育のでは、「ゲミフィケーション」というトピックが流行した(まだしている?)。課題をゲーム化したり、ゲームでプレーヤーを惹きつける技法を教育に取り入れて見ては、というアプローチの研究だ。
先日、腐りきった記者クラブに牛耳られた記者会見会場で、のらりくらりを決め込む態度の悪い官房長官に、ひとり果敢に鋭い質問で切り込むことで一躍有名になった、東京新聞の望月衣塑子氏の講演を聞く機会があった。『武器輸出と日本企業』という彼女の著書で既に読んでいたことだが、遠隔操作の無人爆撃機による爆撃の実情とその恐ろしさを改めて望月さんから直接聞いて、背筋が寒くなった。
実際にはとんでもない殺戮行為を繰り返しているのだが、操縦する兵士にとっては、モニタに映る映像を見ながらボタンやレバーを操作する、まるでテレビゲームのような行為になっている(でも、従来の戦闘と同様、PTSDによる被害は深刻らしいが)。ある意味で、戦闘による殺人行為が、ゲミフィケーションによって矮小化されているようなものかもしれない。
別の日に、伊藤弁護士・香山リカさんのイベントに参加して話を聞いた。いずれもネットやツイッターが絡む名誉毀損、誹謗中傷事例に対する訴訟について、当事者の二人が経緯や現状を報告するという内容だった。
ツイッターでの書き込みや、ブログ記事でさんざんデマや誹謗中傷を下側の被告たちは、訴えられると、自分の発言や主張の正当性について主張して争う姿勢はほとんど見せず、あっさりと判決や和解を受け入れたという。
報告を聞きながら、まるで、スポーツのゲームでペナルティの笛を吹かれてさっと引き下がり、また同じような違反を繰り返すみたいな、気軽さとしたたかさを感じた。しかし、スポーツならルールがあり、ペナルティの蓄積でさらに重い対応が規定されているが、ネット上でのデマ拡散は影響甚大、人格に対する攻撃でもあり、共通に遵守するルールもない。勝訴や和解で、慰謝料や謝罪は勝ち取れるかもしれないが、既に流れてしまっている情報や人々が抱く印象までは、どうにもしようがない。
こういうことを繰り返すネット住人というのは、ある意味で口撃ゲームを楽しんでいる感覚なのではないか。だとすると、やられる側もたまったものではない。そして、こういうお遊びが、大げさかもしれないが、言論とか人権とか真実の持つ重みを蝕んでいくような気がする。