両親は仕事を持っていたので、子どもの頃は祖母が帰宅後の面倒を見てくれていた。
9月1日の震災記念日には、いつも両国にある被服廠跡に連れてこられた。どうやって行ったかあまり記憶がないが、電車で来ようとすると、上野から秋葉原経由でぐるっと回らなければならないので、おそらくバスを使ったと思う。おばあちゃんに手を引かれて行った感触ははっきり覚えている。
一角にある復興記念館(当時そういう呼び名だったかは知らないが)の展示や、慰霊堂の中に飾られている震災当時の様子を描いた大きな油絵が記憶に焼き付いている。中でも、理由はわからないが、うず高い遺骨の山の前で、僧侶が読経している絵と、橋を襲う火炎流に人間が巻き上げられている絵は特に印象に残っている。
その絵は記念館にも慰霊堂にも見つからず、もう撤去されたのかと思ったら、慰霊堂の奥で垂れ幕が仕切られ、非常口と掲示が出ている隅っこで見つけた。
公園内の一角には、小池都知事が慰霊文を拒否した、朝鮮人虐殺の慰霊碑も建っているが、子どもの頃にはこれはまだなかったと思う。
それにしても、両国駅を降りて歩き出すと、歩道の半分以上を占有する屋台がずらっと店を出していた。はじめは大江戸博物館のイベントに連動したのかと思ったら、それは結局横綱公演まで続いていた。歩行者が相互にかろうじてすれ違えるくらいの幅しか空いていない。たまらず通りの反対側を歩いた。
招魂たくましさには感服するが、被服廠跡に来る人々にとって、こういう屋台って、必要だろうか?