ふらりと帰ってきて、翌朝にはバイトに出かけていった娘に朝食と弁当を用意し、駅まで送ってきて、まだ寝てる家族に朝食を準備し、さて締め切り間近の原稿執筆、という瞬間魔が差して、そうだ、積んであるあの本ならちょっとの逃避にもってこいだろうと、コーヒーを飲みつつ読了。
遠いフランスの作家が、どうして日本の状況が手に取るようにわかっているんだろうと思ってしまうほど、最近の日本の状況と似通っていて、薄気味悪かった。
高橋哲哉氏のメッセージのこの一節に深く同意:
ファシズムや全体主義は、権力者が人びとを一方的に弾圧し、恐怖政治をしくことによって成立するだけではありません。とくに、いちおう「民主主義」を制度として前提する社会では、はるかに多くの場合、人びとがそうしたものの萌芽を見過ごしたり、それに気づいて不安や驚きを覚えながらも、さまざまな理由から、危険な動きをやり過ごしていくことによって成立するのです。
実はこの寓話を読みながら脳裏に巡っていたのは、日本の政治的な状況ではなく、英語教育、特にこれから起こる小学校での英語教育の大混乱について。
思い返せば、これまで大小いろいろな分岐点があって、議論が巻き起こったこともそうでないことも、まあ、仕方ないか、前向きに取り組むしかないか、時代の流れだし、などと、やり過ごしてここまでたどり着いた気がする。
どうしたらいいか?今でも、やめられるならやめた方が賢明だと信じている。準備も疎かで、取り組む側の人間に安心も自信も担保できていない状況で無理矢理導入する金と手間は、中学校入門期の大改革に注ぎ込むのが道理にかなっている。
英語教育を小学校に拡大するのは、それを乗り越えてからでなければ、絶対にうまくいかない。
小学校の教室が、まっ茶色にならないように祈りつつ、原稿に向かいます。