23日金曜に埼玉県の公立高校で靜先生と一緒に実習生の授業を参観し、一応今年度の実習校訪問キャラバンは概ね終了、二人で池袋の居酒屋にて反省会を開きました(飲んでただけではない)。そこで話題になったことの一部は既に靜先生がブログで書いている(「教育実習における指導教員の当たりハズレに関する考察 –ゴキブリは死なず。ただ逃げ隠れするのみ–」)。
「ザ・訳毒」ほどひどい状況ばかりでなく、意味のない予習や、何の文脈もなしに淡々と新出語を練習するつまらない語句の導入、音声指導の認識欠如、フラッシュカードの誤った使用方法などなど、我々の授業で指摘しているようなマズイ指導はずいしょにみられる。実習生もさぞかし声をあげたくなるのだろうが、そこをじっと我慢して指導を受けているに違いない。
まあ、ある程度納得のいくレベルの授業をしているのが世間の半分の教員だとしても、実習校(指導教員)のアタリの確率は50%。世の中の半分の教師が納得のいく授業をしていたら、英語教育界がこんなに問題山積みなんてことはないので、せいぜい当選率は控えみにても30%か。
アタリの確率はともかく、ハズレたら実習で得るものはないのかというと、さにあらず。反面教師というか、現場でこういう指導をすればこうなる、ならばどうするべきか、実習生という立場で指導教員からはめられる枠(という名の「教わったように教えている」だけの悪習悪弊であることが多いが)の中で可能な小さな工夫をしてみるとどうなるか、という姿勢で学ぶべきことは少なくない。
大事なのは、「やらされている」ことについて、実習生自身がどういう自覚を持っているか、ということ。
大東英語学科の教職課程では、こういう指導はしちゃイカン、こうせねばイカンということは、二人がかりでいろいろな授業でみっちり指導しているが、それをすっかり忘れて、何も感じずに言われるがまま「マズイ」指導をしているのか、それとも立場上反論や意見することはできなくても、ああ、靜と淡路が授業でしつこく言っていたのはこれか、なるほどこれはマズイ、生徒はどうなっているのだろう、何かできる工夫はないか、という意識を持って指導しているのか。
我々に二人に叩き込まれても、それを自分の問題意識の中で捉え直し、何か問題なのか本質的に理解していなければ、実習の現場でいつの間にかそういう指導をしていても、あまり疑問や居心地の悪さを感じないかもしれない。
実習生たちを送り出す前に、私はいつも次のような話をする。
我々に教わってきたようなことに反する指導は世の中では少なくない。そういう疑問を感じる指導を日常的にしている指導教員に当たってとしても、そういう教員を指導するのは実習生の仕事ではない。疑問を感じながらも、何がおかしいのか、どうしたら良いのかをしっかり感じながら実習すれば学ぶことはある。大事なのは、そういう疑問や怒りを、現場に出るまで温め続け、自分の授業では繰り返さないこと、そして後輩ができたらそれを伝えていくことだ、と。