急がせているのは、誰?なぜ?

今回の土屋先生によるブログ記事「私の英語教育時評(14)英語教育の道すじー急がば回れ」は、いつになく嘆きと怒りに満ちていると感じました。

かつてはご自身も学習指導要領の改定に関わり、英語教育行政の中枢で英語教育の改善に携わっておられた土屋先生が、「今の日本の英語教育はあまりにも性急に過ぎるように思われます」と危惧されているということは、大変重く受け止めるべき意見だと思います。

英語教育改革と言われるこれらの流れは、一体誰のために、何を目当てに、どこに向かっているんでしょうか?そういう流れを牽引しているのは、どういう人たちなのでしょうか?

土屋先生の記事でとりわけ私の目を引いたのは、なぜ今の英語教育政策が極端に走り過ぎているのかを考察した部分です。

その原因として、一部の限られた(恵まれた)環境の実験的思考モデルに依存していることを、土屋先生は次のように指摘しています:

筆者の見るところ、大学における実験的試行をモデルにしているために起こっています。実際に文科省の英語教育政策の推進力となっているのは、達意な英語の使い手で、英語教育にこの人ありと目されている高名な大学教授たちです。また、その人たちが考案し試行しているプロジェクトです。

そのように指摘した上で、上智大と英検によるプロジェクトやそこから派生するCan-Doリストを例として挙げ、「そういうものを参考にするのは結構なことですが、それを中高の英語教育に逆算的に適用しようとするのは感心しません。」と断じていることです。

ここ十数年の、無理やり小学校英語教科化、入試改革という名の市場獲得競争と囲い込み、「第三者」「民間人」という着ぐるみをかぶったの教育の素人さんたちが闊歩する有識者会議という名の規定路線の権威づけ、ICTやオンライン教育産業がハイエナのように現場に群がり食い散らかす構図、教育のビジョンも舵取り能力も失った難破船文部科学省(いや、難破じゃなく、シージャックされているというべきか)、などなど。

もうなんだか、鬱になっちゃいそうです。でも、怒りを燃やして推進力に変えていかなきゃいけませんね。骨が折れているせいか、弱気になりがちでいけません。

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