2016年5月8日の日経新聞トップ記事。多くの人には、この記事は教育関係の記事に映ったかもしれませんが、日経の一面トップとして扱われていることからもわかるように、これは経済産業界のニュースです。教育的な施策や配慮ではありません。現場への電子教科書売り込み作戦の一つです。
記事でも「教科書の内容をタブレット端末に取り込む際などには無線LANの環境が欠かせない」と書かれていますが、現場に電子教科書を導入するためには、最低限この無線LANのアクセスを確保しなければなりません。つまり、今回発表された施策は、電子教科書を売り込むための道筋を、国が税金を使ってお手伝いします、というレベルの話です。
以下、この「商魂」が、教育現場にとってどういう悪影響をもたらしかねないか、電子教科書に関する考えも含めて、私見を述べてみたいと思います。
時代の流れ?
中・高・大という各レベルで勤務してきた経験から、ICTを活用するための環境や体制は、大学ならなんとかなるレベルですが、初等・中等教育段階では、そもそも教室環境や人的配置、予算措置、ユーザの年齢などを考慮すると、クラスサイズや教員配置、メンテナンスにあたる人件費確保など、かなり学校の基本的レベルから改善をしない限り、効果的な活用は難しいと感じます。
「時代の流れ」だとか「必然」などという思考停止状態で、学校現場への電子教科書導入を諸手を挙げて歓迎する動きが主流ですが、新しもの好きの私としては珍しく、それには「反対、時期尚早」という立場から警鐘を鳴らしたいと思います。
現場教員の「鼻」を効かせれば
学校教育の改善を目指し、現場を少しでも観察すれば、なかなか問題が解決しない原因はどの辺にあるのか、明確な答えは出ないにせよ、この辺りじゃないか、とか、そこじゃないだろ、という鼻が効くようになるはずです。
そういう嗅覚からすると、電子教科書の導入は、「今はそこじゃないだろ」という臭いがします。もちろん、導入によってできるようになることもあることは充分わかりますが、そのトレードオフとして発生する問題や制約が多く、総体的に判断して、導入によって教育が大きく前進することは期待できないということです。
電子教科書導入にあたって
まだこれほど電子教科書の機運(というか業界の執念あるいは悲願)が盛り上がっていない頃、文科省から委託を受けた調査研究に関わっていました。そこでも私は慎重派の立場から意見をしましたが、最低限のスペックとして、ハードウェアの面からは、
1)床に落としても壊れない
2)電源は最低でも1週間は持つ
3)ネットワークインフラの確保
を提案しました。ソフトウェアの点では、
4 )単に印刷教科書の電子化されたものではなく、電子教科書としての特徴をフルに
活かした教科書作成体制の確立
5)教科書の検定制度に関連する法の整理
ということを条件として挙げました。これらの条件整備を、全般的に丁寧に行ってから導入しないと、現場は振り回され、むしろ教育の質の低下すら招きかねません。
今回の施策
さて今回の施策は、上の条件のうち、ハード面で授業に直接的な影響や混乱をもたらしそうな最初の二つは達成されぬまま、導入に最低限必要な無線LAN環境の突貫工事だけ施し、現場で教科書に代わるものとして電子教科書が導入する方向に向かうということに感じます。4)については、コンテンツやソフトウェアの改良が進んでいるようですが、5)の検定に関連する制度改革や法整備、費用負担や広域採択・無償配布との関連をどうするのかなど、問題は残されたままです。
しかも、負担するのは開通に必要な機器設置費用の5割。残り半分は、自治体か学校で負担する必要があります。その後の通信費や維持管理にかかる費用に対する補助があるとは明示されていないので、おそらくはそれぞれの学校負担なのでしょう。また、記事でも指摘されているように、「学校によっては無線LANを整備しても、もともとの回線が大規模な通信に堪えられないところもある」という問題があります。これに対しては、一応「そうした学校には文科省の補助金を活用して、回線の大容量化を同時に進めるように促す」とは書かれていますが、おそらくはこれは売り込む際には大した問題ではないと推測します。学校から外部に接続できなくても、校内LANに設置されたサーバ経由で電子教科書のコンテンツ更新は可能だからです。
仮に回線増強も何とかしたとしても、学校内で自由に無線LANへアクセスできるようになった場合、生徒が小型のタブレット端末など持ってきて、トイレでゲームに耽るなんてことも充分起こりえます。ただでさえ携帯電話やスマホの扱いに苦慮している教育現場で、また頭の痛い問題を増やしかねません。
このような状況の中、とにかく導入を!と強行したら、ただでさえ多忙で問題山積み、授業改善にまで気力も体力もが回らない現場の教師たちはどうなるのか、想像するだけで寒気がします。売る側としては、全国の津々浦々、小中学校に売れることを算段して垂涎ものでしょうけど。しかも、それをかなりの血税をつぎ込んで行おうというのですから、考えものです。
「有識者」「専門家」は責務を果たすべき
ICTやCALLを専門としている研究者にとっては、こういう新機軸は嬉しい話だろうけど、英語教育を大局的に見て、本当にそれが全体にとって必要なことなのか、教科書を電子化することが今の英語教育改善に本当に資するのか、己の興味関心とは区別して考えるべきだと思います。
もちろん、学習支援ツールとしてのタブレット端末の可能性は感じますし意義も理解していますが、それと、すべての児童生徒の主たる教材を電子教科書に置きかえていいのかどうかということは、別次元の問題です。
こういう方針決定に関与しているいわゆる「専門家」は、産業界の要請に押し流されてるだけではなく、教育の専門家としての見地から、きちんと教育的な意見提言をしてもらいたいと思います。
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