高橋哲哉『沖縄の米軍基地「県外移設」を考える』(集英社新書)

2015-10-29 10.50.27高橋哲哉『沖縄の米軍基地「県外移設」を考える』(集英社新書)読了。いろいろ考えさせられたり、知らなかった事実に驚いたり。おすすめの一冊。

中でも、沖縄に基地が集約される以前は、本土の比率の方が高かったこと、集約の背景にある動機は、本土での米軍駐留に伴い高まってきた反米感情を、臭いものに蓋をするように沖縄に「閉じ込め」、封じ込めようとしたらしいこと、さらに、これまで本土や国外への基地移転が米国側から提案されながら、それを日本政府が断っていたことに驚いた。

こういう背景を知ると、現政権の対応には一層の驚きや怒りすら感じる。

以下、いちばん印象に残った部分(pp.50-56)を引用する。

 沖縄県によれば、二○二年三月末現在、在沖米軍兵力は陸軍、海軍、空軍、海兵隊合わせて二万五八四三人で、その約六割(五九.五%)は海兵隊である。また、二〇一三年三月末現在、基地面積は二三一・七㎢キロで、沖縄島(「本島」)では土地面積の約一八%を占め、その七五・七%は海兵隊施設である(沖縄県知事公室基地対策課『沖縄の米軍基地』二〇一三年)。普天間飛行場も海兵隊の基地である。したがって、海兵隊の動向がつねにクローズアップされるのだが、その沖縄の海兵隊が、もともと「本土」から移ったものであることを知る人は少ない。
 サンフランシスコ講和条約発効当時、日本「本土」にはまだ多数の米軍基地が存在したため、「本土」と沖縄との基地面積の比率は九対一で、「本土」のほうが圧倒していた。
 NHK取材班の調査(NHK取材班『基地はなぜ沖縄に集中しているのか』NHK出版、二〇一一年)によれば、日本を占領した海兵隊は、講和条約発効と同時にいったんすべて米国に撤収したが、朝鮮戦争勃発と同時に在日米軍兵力の増強が必要となり、再び日本に戻ってくる。一九五三年、海兵隊は第三海兵師団として日本「本土」に移駐した。司令部がキャンプ岐阜とキャンプ富士(山梨県)に置かれ、神奈川県横須賀市、静岡県御殿場市、滋賀県大津市、奈良県奈良市、大阪府和泉市・堺市、兵庫県神戸市などに部隊が駐留していたことが確認されている。海兵隊はまず「本土」に分散駐留していたのである。
 ところが、その後、この海兵隊が沖縄に移駐していく。なぜ沖縄なのか、その理由を語る決定的な史料はまだ見出されていない。しかし、先行研究の多くは、当時の「本土」各地で米軍基地への反対運動が劇化し、それが反米運動に転化することを日米両政府が懸念したことを理由に挙げている。内灘闘争(石川県)、浅間・妙義山闘争(長野県・群馬県)、砂川闘争(東京都)などである。
 NHK材班も、「日本国民の間で高まる反戦感情の要因が駐留を続ける米軍である」こと、また「沖縄が重要な基地になり得る」ことが、当時のアイゼンハワー政権内での共通認識だったと指摘する専門家が多いとしたうえで、その一人であるアラン・ミレット博土の証言を紹介している(同氏は海兵隊の元大佐。退役後、アイゼンハワー大統領図書館の顧問などを歴任しニューオーリンズ大学で教鞭をとる)。

軍の上層部や国務省などは、日本本土に陸上兵力が駐留し続ければ、日本を含めた防衛体制の一貫(ママ)としてではなく、敵である“占領軍”として見られ、日本国民との間に良好な関係を築くことの妨げになると考えていました。それを避ける方法は、ただ一つ。部隊をしっかり管理し、可能ならば日本の一般市民から部隊を“隔離”すること。そのためには日本本土より沖縄の方がやりやすいのは明らかでした。(同書、三三〜三四頁、強調は高橋)

 ミレット博士は、沖縄のほうが「安上がり」であるとか、地理的に機動性を生かしやすいとか、経済面や軍事面にも言及したが、多くの言葉を費やしたのは、「沖縄の方が置きやすいから」「日本国民との摩擦・衝突を減らせるから」という「政治的な理由」だった。
 こうして第三海兵師団は、日本に戻ってきてからわずか四年後の一九五七年には、「本土」から沖縄に移っていった。「日本の一般市民から部隊を“隔離”するため」の場所として、沖縄が選ばれたのである。

日本政府が求めた海兵隊の「沖縄駐留維持」
 一九七二年五月一五日、沖縄は日本「復帰」を果たす。この前後にも「本土」と沖縄の基地にかかわる注目すべき動きがあった。いわゆる「七○年安保」の前後、ベトナム戦争、米原子力空母エンタープライズの佐世保入港、米空軍ファントム偵察機の九州大学箱崎キャンパスへの墜落などで、「本土」でも反米感情、反基地感情が高まった。
 これに対して日米両政府は、首都圏の人口密集地における基地返還を進めることで対応し、七二年一月一○日、関東地方の六つの米空軍基地を削減し、その機能を横田基地に集約する「関東計画」が公表された(正式合意は七三年)。これにより、府中空軍施設、キャンプ朝霞、立川飛行場、ジョンソン飛行場住宅地区、関東村住宅地区、水戸空対地射爆撃での六基地が返還される。
基地機能の集約先とされた横田基地周辺では反対運動が起こるが、政府は地元の福生市に破格の振興費を交付。そして米空軍は、横田基地周辺の騒音問題を引き起こしていたF戦闘爆撃機ファントムの部隊を、まさに沖縄の嘉手納空軍基地に移駐させる。これにより基地負担が減った福生市では、基地を肯定する市民が増え、二○一二年の市政世論調査では肯定派が八四・四%に達している(「福生市市政世論調査報告書」福生市企画財政部秘書広報課、二〇一二年、九四頁)。こうして、「本土」では米軍基地が大幅に削減され、反基地運動が収束する一方で、その負担が沖縄に転化される事態が繰り返されたのである。
 さらに、関東ではこのように米軍基地の整理縮小を進めた日本政府が、同じこの時期、沖縄からの海兵隊撤退に反対していた事実が最近明らかになった。
 二〇一三年二月八日、『沖縄タイムス』が次のように報じた。沖縄国際大学の野添文彬講師(国際政治史)がオーストラリア外務省で発見した公文書によると、沖縄の日本「復帰」直後の一九七二年から七三年にかけて、米国国防総省は沖縄の海兵隊基地を米本国の基地に統合する案を検討していた。米国は当時、ベトナム戦争が泥沼化するなかで戦費が嵩んで財政負担に苦しみ、基地機能の見直しを進めていた。海兵隊撤退論もそのために検討されたのだが、それが実現しなかったのは、日本政府が海兵隊の沖縄駐留維持を求めたからだ−−−。
 米国国防総省は、「沖縄やハワイなど、すべての太平洋地域の海兵隊をカリフォルニア州サンディエゴ(キャンプ・ペンデルトン)に統合することが、かなり安上がりで、より効率的」と考え、また沖縄の海兵隊の韓国移転案なども検討していた。ところが日本では、当時の久保卓也・防衛庁防衛局長が「アジアにおける機動戦力の必要性を踏まえると、米国の海兵隊は維持されるべきだ」と主張。日本政府は、「日本防衛のために、いつでも米軍が立ち上がるという意思の確証を与えるため、海兵隊の沖縄常駐が必要である」などとして、日本への駐留継続を求めた。その結果、米国も、「日本政府が在沖海兵隊を必要とすることに乗じて日本側の財政支援を引き出し駐留維持を志向するようになる」。要するに、米国のすることに日本は口を出せないところか、米軍が沖縄から撤退しようとしているのに、日本がそれを引き留めでいたことがわかったのである。
 敗戦直後、九対一だった「本土」と沖縄の米軍基地面積の比率は、こうした流れのなかで「復帰」のころにはおよそ一対一になり、そしてその後も、現在の一対三に至るまで、沖縄の負担比率が増していくことになる。面積比が〇.六対九九.四のところに、基地面積比が一対一となれば、既に異常な不平等が生じていることになる。

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