この記事に引用されている「現段階でいじめと断定できない」という校長の話に、とても違和感を覚えました。
客観的にいじめに相当するかどうかの判定が重要でないとは言いませんが、本当に大事なのは、当該生徒がそこまでのことをノートに書くほどの境地に追い詰められていると「感じていた」ことだと思います。
校長の発言は、あたかも「いじめではなかったのなら、問題が大きくなることはないと判断した我々の判断に過失はない」という自己弁護に聞こえてしまいます。
双方から話を聞いていた、と校長も話していますが、難しいのは、本当にいじめのような状態であればなおさら、当事者同士を呼んで双方の話を聞いても、あまり深刻な状態ではないように見えてしまうことも多いことです。
だって、やってる方は組織的に隠蔽するでしょうし、やられてる側は心から教師の胸に飛び込めるほど信頼関係がなかったり、学校の対応によっては火に油を注ぐことになると直感していますから。
無駄だとは言いませんが、単にカウンセラーを各校に配置したり、いじめのセミナーをやるだけでは解決には直結しないと思います。
むしろ、日々生徒を見ている担任や学年団、その他のベテラン教員がチームワークを発揮し、保護者や周りの生徒など、様々なソースからの情報を複数の眼でチェックして対応できていたかどうかが気になります。
報じられているところでは、かなり気になる記述が複数出ていたようで、教員側もそれなりに動いていたようですが、それを手がかりに最悪の事態を予測・防止できなかったのは、何か楽観視してしまったのでしょうか。
とはいえ、完璧な予測や防止策は難しいでしょうから、仮に教員たちも手を尽くそうとしていたのだとすれば、たとえそれが結果として不充分だったとしても、担当教員としては悔やんでも悔やみきれない辛い心境でしょうね。
そうだとしたら、結果に対する責任追及よりも、教師として今後に活かせる教訓を引き出し、これ以上同じような悲劇が起きないように力を尽くせる教師として成長することを支援することだと思います。逆に、明らかにずさんな対応をしていたのであれば、そういう教員はもう現場に置くべきではないことは言うまでもありません。
http://www.asahi.com/articles/ASH775TCYH77UTIL02V.html