« March 10, 2004 | メイン | March 12, 2004 »

教育訓練省のLanさん

(March 11, 2004)

前日、ブリティッシュカウンシルのStottさんから紹介された教育訓練省の英語教育担当者に電話をして、面会の約束をしていた。こちらが不案内なのがわかっているので、わざわざ私が滞在しているホテルまで来てくれるという。教育訓練省のお役人さんもやはりさっそうとバイクで登場するのだろうと思っていたら、その通りLanさんはバイクに乗って現れた。前日に話をした人とは別の人で、ハノイ地区のELT Specialistだそうだ。ホテルのカフェで1時間以上いろいろ話を聞いた。
もっとも興味深かったのは、現職教員の授業を視察して回る制度だ。各地区の英語教育担当官は、地区内の全中学校高校を巡回して実際の授業を視察し、所定の基準に従って評価を下す。その評価が一定以上の教員だけが、より上級の学校で教鞭を執ることを許されるのだそうだ。今のところその評価が給料に直接反映されるということはないそうだが、授業視察は事前通告なしで行われることもあるという。する方もされる方もなかなかシビアな制度で、教室は教師の王国になっていることが多い日本ではこのようなことはほとんど不可能かもしれない。
もう一つ関心を持ったのは、BAVE(Business Alliance for Vietnamese English)プロジェクトだ。これは、欧米の資本が出資して、ベトナムで使用する英語の教科書を作成し供給するというプロジェクトだそうだ。現在も作業は進行中で、Lanさんはバイク飛ばしてわざわざ自宅まで戻り、あまっている教科書を一冊見本として持ってきてくださった。これもDoi Moi政策の影響だろうが、当然何らかの利益を期待して出資する欧米企業の利益と、社会主義国としての国策をどのようにうまく融合させるのか、将来の動向が楽しみなプロジェクトだ。

Posted by Yoshi at 01:24 AM

ホーチミン廟へ

(March 11, 2004)

Lanさんとの面会を終え、部屋に戻って荷を整えてロビーに降りてチェックアウトを済ませた。次の目的地フエへのフライトは昼だったので、これからホーチミン廟を訪問するのは時間的にぎりぎり、というかホテルの人も止めるほどきわどい状態だった。ホテルの人から、長い待ち列ができているはずだから、その辺の役人に事情を話して途中に割り込ませてもらうようアドバイスをもらって、前日確認しておいた市場を抜ける近道をホーチミン廟目指して走っていった。通りの渡り方も前日ある程度経験を積んで慣れていたのも正解だった。
途中、アンプを肩から下げ、エレキギターで弾き語りをしているヘンなおっさんを発見。おもろいのでデジカメで写真を撮ったのがまずかった。すかさず相棒らしき兄ちゃんが帽子を持ってにじり寄ってきた。楽しんだんだから、代価を払えというわけだ。こんなゴロツキみたいなやつと口論してほーおじさんと会えなくなっては元も子もない。文句を言う時間も惜しかったのでポケットからサッと1米ドル札を出しくれてやり、先を急いだ。
ホーチミン廟がある大きな公園の敷地に入ると、いわれていた通り、入廟希望者が整然と二列に並んで歩いていた。最後尾はどこまで続いているのか見えないほど長い列だ。これではまともに並んでいたら飛行機に乗り遅れる。列を見張っている軍人らしきおじさんに近づき、どうせわかってももらえないだろうと思いつつも、一応英語でそれなりの事情を説明したあと、列に入っていいかどうか身振りで尋ねた。おじさんはニコリともせず、「行け」というようにあごで列の方を指した。ちょうど公園の入り口のところでいったん列が切れていたので、そこにサッと割り込ませてもらった。
この行列では、ほとんどの人が口も聞かず二列になって間隔を開けず、黙々と歩いていた。それもそのはず、ちょっとでも列を乱したり間隔を開けすぎたり私語がひどいと、すぐに軍服を着たニコリともしないおじさんが飛んできて注意される。後で起こる出来事でもわかるように、ベトナム人はきちんと並んで順番を待つことがないのに、これだけ整然と整列しているのは驚くべきことだ。それだけ軍人のにらみが行き届いているということでもある。
私が割り込んだあたりはちょうどベトナム人ばかりで、外国人はまったく見あたらなかった。当然、英語だってそんなには通じないだろう。みんなこっちを好奇の目で見ているのがわかる。背中にも視線を感じる。ガイドブックなどでは外国人とベトナム人は別の列に並ばされるなどとも書いてあったが、もしやまずい列に紛れ込んでしまったかと不安で一杯になった。

Posted by Yoshi at 01:43 AM

「ニホンジンダネ」

(March 11, 2004)

現地のベトナム人たちも心なしか緊張している様子で、皆ほとんど口をきかず、整然と二列になってゆっくり進んでいく。これはやばい列に紛れ込んでしまったかもしれないと、かなり不安になっていると、後ろの方でNhat ban(ベトナム語で「日本人」)というひそひそ声が聞こえてきた。だいたいあまり観光客が来ないような場所へ行くと、たいていこういう会話が耳に入る。不思議なもので、同じようなアジア系の顔をしていても、服装やしぐさ、体格からどこの国から来たのかだいたいわかってしまうようだ。
まあ、いつものことだと無視していると、その内緒話もだんだんエスカレートしてきて、とうとう「ニホンジンダネ」というひと言が聞こえて振り返った。ベトナム人の若者にはまだまだ珍しい茶髪をし、洒落た革ジャンを着た若者がニコニコして立っていた。最初は錆び果てた自分のベトナム語で「どうして俺が日本人だってわかったんだ?」と問いかけたが、向こうはそれよりもはるかに流暢な日本語で「日本に3年もいて、数日前に帰ってきたばかりだから、勘でわかるんだ」と答えてきた。
チョイという名のその若者は何と、私が勤務する中部大学のすぐそばの愛知県日進市で、3年間研修生として建設会社で働き、コンクリート打ちの研修をしていたそうだ。世界は狭い。心細さから解放され、彼も日本が懐かしそうだったせいもあり、思わず会話が弾んで見張りの兵士ににらまれた。一緒にいたチョイの友人も、ちょっとポケットに手を突っ込んでもぞもぞしていただけで難癖つけられ、ポケットの中身を見させられた。
そこから先は、彼が後ろから小声で日本語の指示をしてくれたので、どこで荷物を預けるのか、その後どうやって受け取るのか、あれこれ面倒見てくれて助かった。彼は以前中学生の頃ホーチミン廟へ来たことがあるらしい。現地民の間では、ホー主席の遺体は本物なのかどうか、いろいろな噂もあるようだ。不謹慎な憶測だが、蝋人形だったとしても確かめる術もないし、ばれることもないだろう。

Posted by Yoshi at 01:45 AM

ホーおじさんとご対面

(March 11, 2004)

並び始めてしばらくすると、小さな小屋にいかにも古めかしいX線検査機のようなものがあり、そこで手荷物のチェックを受ける。手荷物がある場合は小さな透明の手提げ袋を渡される。いった異動すればいいのか困っていると、後ろからチョイ青年が教えてくれた。またしばらく行くと、手荷物預かり所があるので、そこでこの手提げに荷物をまとめて預けるんだそうだ。カメラはおろか、携帯電話も持ち込み禁止になっている。これほど神経質になるのは何故かわからないが、まあ、国民的尊敬を集める偉人の亡骸が安置されている写真が出回るのは困ると言うことだろう。
さらにしばらく行くと、だんだん大理石の巨大な建物がそびえ立っているのが見えてくる。時折、白人の観光客グループが、兵士に伴われて列に割り込んでくる。たぶん、だだこねて入れてもらったんだろう。私ももっと駄々をこねて先の方に入れてもらえば楽チンだったかも知れないが、現地ベトナム人の列に闖入したのはそれはそれでなかなか味わい深い経験だったし、チョイ青年とも会えなかったかも知れない。タイミングというのは不思議なものだ。
廟のすぐそばまで来ると、手荷物預かり所があった。そこでカメラを預けねばならないので、最後のチャンスにチョイ青年たちと記念撮影をした。早速兵隊が近寄ってきてにらまれたので、さっさと切り上げて預かり所のカウンターへ向かっていった。
カウンターには四方八方からベトナム人がにじり寄ってきて、てんでに自分の手荷物を差し出し、預かり札を受け取っていく。なるほど、これが本来のベトナム式か、と感心していると、とまどっている白人の女性が目に入った。十数人が放射状になっているところで立ちつくす二人。しかし、郷に入りては郷に従えと、放射状の人だかりに突入し、ぐいぐい前に出て、さっさと手荷物を預けてきた。さすがの日本でも、ここまでやれば喧嘩の一つも起こりそうなものだが、ここでは誰も気を悪くしたり、いらいらしている様子はない。並ぶことに慣れている人間にとっては精神衛生上よろしくないが、ここではこういうやり方なのだから仕方ない。私が預け終わったとき振り返ったら、可哀想にまだ白人の女の子はもぞもぞしていた。
十数メートル先の角を曲がると、廟と外務省?の建物の間の広場に出た。そこからは急に空気がぴりぴりしてきた。10メートルおきに兵士が立っており、赤い絨毯が敷かれた入り口階段の両脇には、機械仕掛けのような衛兵が交代で入り口の番をしている。その手前では厳しい目の兵隊がうろうろして入場者の最終チェックをしている。周りのベトナム人たちも、チョイ青年たちを含めて緊張している様子が感じられた。チョイの友人の一人は、ポケットに手を入れているのを見とがめられ、中身をあらためられていた。ライターをもぞもぞいじっていたのがまずかったようだ。
階段を上って廟に入ると、中は冷房が効いていた。ベトナムでは高級ホテルは別として、これほど冷房が完備しているのは珍しい。遺体の保護のためか、それともホーチミンに対する敬意かはわからない。中のドアを開けて廟の中心部に入る。ここからは数メートルごとに兵士が立っている。緩やかな階段を突き当たりまで上って折り返すと、そこから照明がぐっと暗くなり、こちらを頭にして安置されているホー主席の遺体を囲むように回廊になっている。遺体と回廊の間は城の堀のように低くなっていて、中央台上のガラスケースに遺体が安置されている。堀の中の四隅には、やはり微動だにしない兵士が立っていた。
ケースの中のホーおじさんは黄色みを帯びた光で綺麗にライトアップされ、まるで今にも起きあがりそうなくらい生気を帯びていた。目を閉じて静かに横たわっている姿は、どことなく寂しげでもあった。生前のホーおじさんは人民ととても親しく活動を共にし、権威主義的なものはあまり好まなかったらしく、銅像などを造られるのも好きではなかったようだ。それが、当時のソ連の影響とはいえ、このような形で自らの遺体が永久保存され、人民への威信の保持のために展示されることになろうとは。哀しげに映ったのは、そういうことが頭をよぎったからかも知れない。
列は決して立ち止まることなくゆっくりと進み続け、回廊を回って外へ出る。出口を出ると人々は緊張から解き放たれたように動きを取り戻し、明るい外に出て行った。入廟前に預けた手荷物は出口の小屋で受け取るようになっている。札を渡してデジカメと携帯を受け取った。ここでは順番に人が出てくるため、放射状の待ち列はなかった。そこからさらに進むと、ホー主席が住んでいた家が公開されているのだが、既にこの時点で10時45分。ハノイの空港を飛行機が出るのが12時30分。見学する時間がないどころか、フライトに間に合うかどうかも怪しい時間になっていた。チョイたちに別れを告げ、順路から外れて廟の前の広大な広場を走って戻った。それでも、訪れた記録が何も残らないのも悔しいので、学校で見学に来ていたとおぼしきベトナム人の女の子にシャッターをお願いして、廟の前で記念撮影した。何と、肝心の廟は外してくれて、「ベトナム社会主義人民共和国万歳」っていう看板がしっかり入っていた。とほほ。

Posted by Yoshi at 01:46 AM

honda ong初体験

(March 11, 2004)

広場を横切り、通りまで来たところでホテルまで走って帰るのを諦め、hondaを使う決意をした。歩道にたむろしている中からまともそうなやつを選んで声を掛け、ホテルまでの値段を聞いたら2ドルだという。法外な値段だとはわかっていたが、時間もないし背に腹は代えられない。そいつのバイクの後ろに飛び乗った。
せっかくのhonda初体験、その一部始終を撮影してやろうと、デジカメを動画モードにセットし、カメラを回し続けた。思ったほど怖くはなかった。周りで見ているとはまたちょっと違い、後部座席に乗っていると運転手が周囲の交通の流れを読みつつ運転している様子が背中越し、視線やアクセルのふかし具合やブレーキ操作によってひしひしと伝わってくるからかもしれない。
歩道から眺めているのとは大きく違うのはそれだけではない。バイクに囲まれていると、その排気ガスや土埃がもの凄い。それに前から来る風に乗ってくる運ちゃんの体臭や騒音、ひっきりなしに聞こえるクラクションも加わり、もの凄い臨場感だ。後にフエでもバイクに乗ることになるが、そのときには排気ガスと土埃で大変な目に遭うことになる。

Posted by Yoshi at 01:46 AM

ホテルから空港へ

(March 11, 2004)

あっという間にホテルに到着し、預けていたスーツケースを受け取り、ホテルのスタッフにお礼を言ってロビーを出た。ホテル前には来るときに乗ったのと同じ、白いボディーに青い文字でAirport Taxiと書いてあるタクシーが数台並んでいた。ベルマンが案内するままその一台に乗り込み、行き先を告げ急ぐように英語で言ったが伝わった反応がない。確かめてみると、ほとんど英語はわからないという。仕方ないので、メモ帳に飛行機の絵と離陸時刻を数字で書いたものを見せた。大学で一応ベトナム語を専攻したくせに、これくらいのこともとっさにベトナム語で言えない自分が情けなく感じた。
今度の運ちゃんも、来るときとさほど変わらない運転ぶりだったが、不思議と落ち着いて乗っていられた。ハノイでの二日を振り返り、メモをとっている余裕すらあった。きっと、それだけベトナムの交通事情に慣れてしまったのかも知れない。
空港には無事11時30に到着。思ったよりも早く着いた。国内線のカウンターに向かっていって、何かちょっと英語で尋ねたが、困ったようにニコニコされてしまった。ま、国内線では仕方ないか。それよりも、ちょっと油断しているとすぐに横から割り込まれるので気が抜けない。あちらは悪気がないのだろうし、こっちもよそ者ルールを振りかざして文句を言うわけにも行かないので、それとなくカートをぐいと前に押し出して防御する。そうでもしないと、いつになったら自分の順番になるかわかったものではない。

Posted by Yoshi at 01:49 AM

フエ空港到着

(March 11, 2004)

フエ行きの飛行機は、さすが世界遺産に指定された遺跡群があるだけあって、西欧人の観光客もたくさん乗っていた。多くは退職後の旅行を楽しんでいる年配の人々だった。機内では、香港からハノイでの機内でも出されたのとまったく同じ機内食が出された。堅いロールパンにハムとキュウリがはさんであるサンドイッチと、プラスチックのカップ入りミネラルウォーターが入ったボール紙の箱だ。この程度なら、無理して出さないでもいいのにと思いつつも、もったいないので地上に見えるくねくねとうねった川や点在する沼を眺めながら平らげた。
フエ空港に着陸しタラップを降りると、ハノイとは打って変わってむっとして暑い空気がみなぎっていた。バスに乗せられ、「ターミナル」に到着して目が点になった。ターミナルと呼ぶにはとてもおこがましい、バラックというのがふさわしい建物で、広さはテニスのコートより狭く、照明もまともについてないので中は薄暗い。壁面は波形のトタン板が張り付けてある。トイレに入ってピンと来た。これは、米軍が使っていたもののお下がりに違いない。男性の小便器の高さが、身長175センチの私ですら背伸びしないときついくらい高いところにつけられていた。後で知ったのだが、この建物のすぐ隣には、鉄筋コンクリートの比較的立派なターミナルビルを建設中だった。
そんな「ターミナル」の中にも、何と電動のカルーセルがついていた。しばらく待つとカルーセルが回り出し、荷物が出てきた。カルーセル自体は電動でも、荷物を載せるのは人力で、ゴムのすだれの向こうにはせっせと荷物をベルトに乗せる若者二人が見えた。まもなく、荷物が引っかかり、どんどん押し寄せるスーツケースがカルーセルの内部にごろごろと転がり落ちて山になり始めた。そんなことにはお構いなく、若者はどんどん荷物を乗せてくる。仕方ないのでカルーセルを乗り越えて環状ベルトの中に入り、スーツケースを一つずつベルトに戻してやった。何でこんなこと自分がしているんだろうと思いつつも、周りのほとんどは西欧から観光旅行を楽しみに来ている退職老人なのだから仕方ない。
一仕事終え、無事荷物がはけたのを見届けてから外に出た。日差しが暑い。ホテルには迎えの車を頼んでおいたのだが、出口で待ちかまえている現地人が持っている札には私の名前はない。そのまま通り過ぎて駐車場を見ても、それらしい車は見あたらない。仕方ないので適当なタクシーを見繕って値段を聞くと、ホテルまで8ドルだという。高かったが値切る気力もなかったので、そのままおとなしく乗り込んだ。

Posted by Yoshi at 05:38 PM

Tienとフエ師範学校へ

(March 11, 2004)

空港からホテルへ向かうタクシーの中から携帯でホテルに電話を入れ、頼んでおいた車が来ていないと文句を言っておいた。ホテルに到着し、チェックインしてTienが迎えに来てくれるのを待った。Tienは、3年前にシンガポールのRELC(Regional English Language Centre)で知り合ったベトナム人の女の子Minh-Tamのお兄さんだ。残念ながらMinh-Tam自身は米国に留学中で今回は会えなかったが、彼女に今回のベトナム行きについて連絡したらすぐにお兄さんに私の案内を手配してくれた。
Tienはもちろんバイクでホテルに迎えに来てくれた。ベトナム人としては珍しく、ヘルメットを持参していた。自分のヘルメットを私に貸してくれ、まずは二人で彼が現在勉強中のフエ師範大学へ向かった。
師範大学について校門をくぐると、ずらりとバイクが並んで駐輪されていた。ベトナムではどこへ行っても眼にする風景だ。
正面の校舎の二階に上がると、Tienが研究部長のLe(レ)先生を紹介してくれた。私がベトナムの英語教育を見学に来たこと、今回は準備的な旅行で、いずれは正式な手続きを踏んで再度来訪する予定だということ、可能ならば授業を見学させてもらいたいということを、Tienがベトナム語で説明してくれた。予想通り、Le先生は然るべきルートから手続きをしないことには対応できないと回答した。いくらDoi Moi(ドイモイ政策)とはいえ、それはそうだろう。つい数年前までは外国人と話をしていると公安当局から尋問を受けることもあったくらいだ。丁重にお礼の言葉を述べ、近い将来正式ルートでお願いすることになる予定なので、その節はよろしくとお願いしておいた。一緒に記念撮影をし、おいとました。そもそも今回は現地でのコンタクト確立が目的なので、これでも大収穫だ。

Posted by Yoshi at 05:38 PM

「プランB」発動

(March 11, 2004)

この展開はTienも予想していた通りだったようで、ニコニコしながら「じゃ、プランBで行こう」といってバイクに戻った。プランB?と思いつつTienのバイクの後ろに乗り、Huong川(Huongは「香り」という意味)にかかる橋を渡ってひとまずTienの家に向かった。
Tienの家は、橋を渡ってすぐの繁華街にある、ギター屋さんだった。一階が店舗で、二階と三階は住居になっている街中で商売を営む典型的な作りの家だった。店ではいとことおぼしき中学生くらいの女の子が、小学生くらいの子どもの相手をしながら店番をしていた。
まもなく、店の奥の方からTienが私のためのヘルメットを持って戻ってきた。これからどうするのか尋ねると、Tienがちょうど教育実習中の、市内から30キロくらい郊外の小さな農村の高校へ行って授業を見学させてもらうのだという。ヘルメットをかぶっていれば怖いものはないし、フエの交通量はハノイとは比べるべくもなく少ないので、喜んでバイクの後ろに乗って出発した。
市内を抜けるまではあちこち交差点があってスリリングだったが、郊外に出るとまるで定規で引いたようにまっすぐな国道をひたすら走った。道路は舗装されていたが、周りの道は未舗装なので、土埃がすごかった。おまけに、ひっきりなしに走るバイクからの排気ガスもすごい。だんだんと家もまばらになり、時折水牛たちが草をはんでいる光景も見えた。

Posted by Yoshi at 05:48 PM

農村の小さな高校を訪問

(March 11, 2004)

30分ほど走り続け、高校に到着した。SMAPの稲垣吾郎似のNguyen Tam校長先生やNguyen Huu Tue教頭先生はじめ(そう、ベトナムではほとんどの人がNguyenさんかLeさん)、教務主任の先生までもがずらりと出迎えてくれた。校長室に通され、蓮のお茶をご馳走になりながら話をした。多くの学校では、校舎の収容人数や教員数の関係で、生徒たちは午前と午後の二手に分かれて授業を受けるのだそうだ。見学することになったのは、午後の部最後のコマ、11年生(日本の高校二年生に相当)の英語の授業だった。だめもとで、おそるおそるビデオ撮影してもいいかどうか尋ねると、何も問題ないかのように二つ返事で許可してくれた。拍子抜けしつつも、すぐにビデオカメラの準備をし、教室に向かった。
廊下では生徒たちが好奇の目で私を見ていた。教室の近くまで行くと、授業担当の若い女の先生と出くわしたが、教頭先生がその場で私が日本から授業を見学しに来たと伝えているらしかった。その先生はとても驚いた声を上げていたが、拒む様子もなくにこやかに受け入れてくれた。
授業開始に先立って、Tienがベトナム語で私を紹介してくれ、一同が拍手で迎えてくれた。あとでホーチミン市の短大の教室へ闖入したときも同じことを感じたが、こうやってお客さんを一斉に拍手で迎えてくれるときの統率の取れた行動というのは、共産党の指導のたまものなのか、それともホーチミンに導かれて長年民族解放戦争を共に闘ってきたことから生まれた連帯感なのか。無論悪い気持ちがするわけではないが、どことなく人工的なものを感じてしまうのは、自分の根が素直でないからかもしれない。
Tienと並んで教室の最後尾の席に座り、ビデオを回しながら授業を見学した。クラスサイズは日本とほぼ同じ、40人程度の教室だった。机の間隔が狭く、びっしりと配置されていたから、教室は日本よりもやや狭いようだった。もちろん冷房などなく、熱気がこもっていた。
授業が始まってすぐに驚いた。教師が何か問いかけをすると、教室のあちこちでサッと手が挙がる。クラス全体に答えを求めればみなが一斉に答える。寝ているものなど一人もいない。疲れたようにうつむいている生徒もいない。みな教師の方を見ている。日本でも小学校低学年なら珍しい光景ではないが、高校二年でこれほど反応がよい授業は見たことがない。もちろん、授業開始数分前に突然見学が決まったのだから、研究授業などにありがちな「やらせ」でもない。
授業を見学しながら私の脳裏をよぎっていたのは日本の生徒や学生のことだった。学校に来ることに対する感謝の気持ちのかけらもなく、ものを知ることに対する喜びはおろか、教室では疲れ切って反応すらしない。
授業が終わると、子ども達は下校してしまった。多くの学校では、教員や教室不足のため、午前と午後の入れ替え制なのだそうだ。私が見学した生徒達は午後組だった。校長室に戻り、先生方に授業の感想を求められた。迷わず子ども達の反応の良さを賞賛したが、教頭先生は逆に、反応しなかったら授業にならないではないかと言ってきた。その通り。日本の授業は多くの場合授業になっていない。
子ども達の反応の良さにはいろいろな背景があるのだろう。小学校段階、あるいはそれ以前の子育ての段階から分析すれば、興味深い違いが明らかになるかもしれない。経済的な要因も大きく影響しているに違いない。あの子ども達にとって、勉強ができるかできないかは、彼らの近い将来の生活に直結している。日本にもそんな時代があったのだろう。団塊の世代が学校にいた頃、いわゆる「受験戦争」という時代がそうなのかもしれない。その後「ゆとり」が叫ばれ、「個性」が尊重され、受験戦争から子ども達を解放しようとした一連の「改革」を経て、日本の子ども達は飽食ならぬ「飽学」状態になった。ベトナムの熱気のこもった教室でそんなことを考えながら、近い将来、アジアにおける日本の地位は急激に低下するだろうという底知れぬ恐怖を感じていた。

Posted by Yoshi at 05:49 PM

フエの庶民料理

(March 11, 2004)

再びTienのバイクの後ろに乗り、陽が傾き始めた土埃たつまっすぐな国道をフエの中心部目指してひた走った。途中、様々な乗り方をしているバイクの写真を追い越しざまに撮影した。高校生までは自転車通学なので、国道の橋を2,3人のグループで何やら楽しそうに話しながらゆっくりと走っていた。
Huong川を渡りフエ市中心を通り抜け、町はずれにある庶民の料理屋に着いた。通りにつながっている細い横町をそのままバイクで入っていくと、建物の裏が広いテラスのようになっていて、その向こうには川に面していた。たくさんの家族連れが夕食を楽しんでいた。観光客ら敷物は誰もいないので、またもや注目を集めてしまった。
Tienと並んで座り、フエの宮廷料理の流れをくむという料理をいろいろ注文した。米粉を水でといて固めたゼリー状の餅のようなものを多く使うのが特徴で、香味野菜や辛めのタレがかかっている料理が多く、ベトナム視察中は勝手に自ら解禁にしているビールが進んだ。Tienは馴染みらしく、客の一人と挨拶していた。床に目をやると、やはりベトナム式に辺り一面に食いカスや丸まったナプキンが散らばっていた。

Posted by Yoshi at 05:51 PM

Huong Giangホテルへ

(March 11, 2004)

フエには四つ星クラスのホテルは二つしかない。そのうち、フエの売りであるリバービューが望めるのはHuong Giangホテルだ。価格的にはさほど変わらないもう一つのホテルにはネット接続があるというのでそちらにしようかと思っていたが、川からちょっと離れているため本当のリバービューは望めないし、Minh-Tamの親戚が関係していることもあり、Huong Gianにした。
建物自体は古くなっているが、綺麗に手入れしてあり、いわゆる西欧式ではない作りなので、いかにもフエに来たという感じが実感できるホテルだ。特に、ロビー隣のホールは、朱塗りの太い柱と天井の装飾が見事で、フエの宮廷文化を表現してある。部屋はそれほど広くはないものの、ベランダからHuong川と対岸の市場が一望できる部屋だった。日本からの客と言うことで、風呂には「バスロマン」と日本語で書かれた袋が置いてあり、私の顔見るなり「コンニチワ」っていうし、細かい心遣いが感じられた。

Posted by Yoshi at 05:52 PM

夜中の発熱

(March 11, 2004)

昼間のスーパーカブ強行軍がたたったのか、ホテルに戻るとドッと疲れが出て、さっとシャワーを浴びた後すぐにベッドに入った。一応空調ついていたが、家庭用のエアコンのような機械だったのであまり効きは良くなかった。
夜中に妙に暑くなり目が覚めた。エアコンが壊れたのかと思いきや、部屋はそんなに暑いわけではない。自分が熱っぽかったのだ。折しもベトナムでは鳥インフルエンザやSARS患者が発生していたので、嫌な予感がしたが、それでも必至に眠りに戻ろうと努力した。しかし、そうすればするほど目が覚めてしまう。とともに、だんだんと熱っぽさが増してきて、大汗をかき始めた。フロントに電話して、体温計がある確認してから取りに降りた。
部屋に戻って測ってみると8度近い。何しろ走りまくったのは郊外の農村地帯、まさか鳥インフルエンザかなどと勘ぐったりして余計に熱が出たのかもしれない。「邦人初感染:ベトナム視察旅行中の大学教員」という新聞の見出しが脳裏をかすめた。鳥インフルエンザには早い段階でタミフルを処方するのが効果があるということだったので、日本を出る前にかかりつけのお医者さんからタミフルを処方してもらって持ってきていた。それを服用し、またじっとベッドに横になって眠ろうとした。しかし、脳裏を様々な憶測が渦巻き眠るどころではなかった。夜中の1時頃、再びフロントに電話を入れ、熱が高いので念のため医者を呼んでもらうよう手配した。
しばらくするとノックの音が聞こえ、ドクターが部屋にやってきた。さすがに鳥インフルエンザなどが話題となっているせいか、ドクターも部屋の外からしっかりとしたマスクを着用して用心している。かなり英語ができるらしく、聞き取りやすい英語で問診してくれた。問診のような誤解が許されない場合は、一語文やフレーズでのやりとりの方が効果的だと自覚しているのかどうか知らないが、症状を現す単語だけ並べててきぱきと問診していた。病状を説明する英語なんて学校でほとんどやらないから、一般の観光客はこんな時は相当心細いだろうなどと妙に冷静なことを考えながら質問に答えた。
診断は「気管支の炎症」。抗生物質や気管支炎の薬、消炎鎮痛剤、咳止めも処方してくれて早速服用した。おそらく、旅の疲れとバイクで移動中に吸い込んだ砂埃や排気ガスで炎症を起こして発熱したのだろう。現金なもので、SARSとかAviation Fluとか恐ろしいもんじゃないとわかり、すっかり安心して眠りについた。あのまま一人伏せって「SARSか?トリフルか?」と思い悩んでたら、本当に気力念力でトリフルに感染していたかもしれない。
代金は、夜中の往診料と薬代をすべてひっくるめてUS$80。日本や米国なんかでは考えられない安さ。本物の医者かと疑いたくなってしまう。せっかく出発前に入っておいた損保ジャパンの旅行者保険の緊急連絡先にも連絡。どうやらベトナムからかけるとシンガポールのセンターにつながるらしい。謳い文句通り、夜中なのにちゃんと日本語で対応してくれた。現金で支払った分は、領収書と処方箋があればすべて帰国後に精算してくれるらしい。旅行保険代金の元は取れた。

Posted by Yoshi at 05:53 PM

« March 10, 2004 | メイン | March 12, 2004 »